こんにちは。ゆたの蒲田整体院長の潮来と申します。このサイトにお越しになったお客様のほとんどの方が疑問に思うことでしょう。
「なぜこの整体院ではここまで心と身体のつながりを大切にしているのだろうか」と。その答えは、院長のこれまで生きてきた人生経験が深く関わっております。初めにお伝えしておきますが、私は社交不安障害とうつ病と戦いながら、整体院を運営しています。自分自身が心の痛みを感じ、希死念慮を感じたことがあるからこそ、同じような苦しみを抱えている人の立場に立って、役に立ちたいと願っています。
だから、自信をもって言えるのです。身体の痛みは心の痛みの表現かもしれない、と。
平凡に過ごした小中高
小中校は、埼玉県、地元の公立へ通学。しかしながら親が共働きな上、ど昭和の人間だったため、「親にぎゅっとされたり」「褒められたりした」記憶がありません。それなりに真面目だったので、勉強はそこそこ良い成績(自分で言うな)だったのですが、記憶に残っているのは父と母の「賢一、もしかして器用なんじゃない?」という会話(しかもひそひそ話w)。その会話は夫婦の会話であって息子の自分に向かって「よく頑張ったね」と言われた一度もありません。
ただし、ここで言いたいのは、父や母に恨みがあるということでは全くなく、今の自分の人間形成に対して、母の「生真面目さ」のDNAと、父の「自分に厳しく」というDNAをよくまあ受け継いだもんだと思います。
実際、小中学校はどちらかというと、先生の言うことをよく聞く「面倒のかからない子」だったと思います。中学生時代なんて学級委員をやってましたから💦。「正しいことをやっていることが正しい事」と、正に、良くも悪くも自分の生真面目な性格が形成された時期であったと思います。
殻を破った大学時代
大学時代では、勉強もそこそこに、「日本中を自転車で旅する」ということに熱中して行っていました。今思うと、親離れしたかった気持ちもあるかもしれません。自転車1つと最低限のお金を持って、本州を縦断してみたり、北海道を横断してみたり、沖縄を一周してみたり、色々な無茶に挑戦しました。その時一番得ることができたのは、「人の暖かさ」。
一番のエピソードは、夏休みを使って本州縦断しようと青森~下関まで走ろうとした初日、事前準備の甘さで、水分が尽きてしまい、口はカラカラ、もう汗も出ません。しかしながら田舎の山道なので自販機1つもない道を何十kmと漕いでいいて、ついによーやく水が見えた―――――!!!と思ったら、海だった——-ッ!!!飲めない―(泣)というところで、緊張の糸が切れ、そのままズサーーーッと自転車ごと海辺に倒れてしまいました。今だったら熱中症で命が危険な状態。そのとき遠くから声が聞こえてきました。
「誰か倒れてるよ~」ああ、神様、どうか水を、水を下さい、、、と顔を上げると小さなお子様がこちらを見ていました。「あのね、もしよかったらお水くれますか?」と、必死さをなるべく隠し(笑)怖がられないようにニコニコしながら。(でも軽くひきつってたと思います)
すると、その子は「お母さんに聞いてみる」と、すたすたと向こう側へ行ってしまいました。視線を追うと、どうやら海水浴に来ていたご家族の模様。次はお母さんがやってきて「動けますか?大丈夫ですか?」と声をかけて、水を下さいました。正直遠慮とかしてたら死ぬと思い、これまでの経緯をご説明したところ、「よかったらご一緒に昼食いかがですか」と、お水だけでなく、おにぎりやらおかずやら、昼食までその知らないご家族にごちそうになったのです(腹ペコだったのでめっちゃ食べた記憶があります)。
多分、あの時、たまたま海水浴に来ていたご家族がいなかったら、この文章を書いていること自体なかったであろう、という命の恩人です。ここまで命に係わることはさすがにもうほとんどないですが、私は、日本を周る中でそんな土地土地の人の暖かさに触れることが嬉しく、後に旅行にハマっていくことになったのです。後日談ですが、旅が終わった後、その際教えていただいたご住所に御礼の品を送り、更にお手紙をいただくといった暖かいやりとりもすることができました。
がむしゃらだったサラリーマン時代
そんなこんなで、勉強もそこそこに、人の暖かさを感じた大学時代を経て、無事サラリーマンとして就職することができました。時は”超就職氷河期世代”を呼ばれていた2002年前後、平々凡々としていた大学に通っていたため、「契約社員」としてのスタートでした。
ただ、契約社員としても社員であることには変わらず、何十人といるアルバイトを指示したり、年上のアルバイトは山ほどいたので、敬意をもちつつも、年下の自分は立場としては上、という今では珍しくないこの構図にずいぶん悩まされました。その時の自分は、「とにかく任された仕事は一生懸命やる」「嘘をつかない」「先輩に経緯を持つ」ということを心に、がむしゃらにやってきました。
そうしたら、10歳以上も年が離れているアルバイトの先輩が次第に信頼してくれるようになってきて、「真っすぐな心は、いつかきっと伝わる」ということを学びました。この時に出会って共に働いたアルバイトの人々は今でも大切な友人です。あ、どこに就職したかって?興味ないとは思いますが(笑)一応、「世界一有名なネズミの住む魔法の国」とだけ言っておきましょう(バレバレ)。
転職と、新しい出会い
そんなこんなで、仕事自体は楽しく、また自分なりにこなしていって全く不満はなかったのですが、やはり氷河期世代としては「契約社員」という立場にやがて不満を持つことになりました。このまま「契約社員で行くのかなあ」とぼんやり考えていたところ、「どうやらグループ会社内で社員募集がある」という話が耳に入ってきました。
将来に不安を感じていた自分はその「社員」という響きに惹かれて同じグループ会社に「正社員」として転職(一応グループ会社とはいえ、退職と入社になるので)することとなりました。転職したグループ会社は、「特例子会社(※)」という会社で、社員の半分以上が障がいを持っていて、「障がいのある社員も、ない社員も共に成長する」といったことが理念の会社でした。
(※)特例子会社とは…障がい者雇用の促進と安定を図るため、障がい者の雇用において特別の配慮をする子会社のことです。従業員を40人以上雇用している会社は2.5%の障がい者を雇用しなければならない、という「障害者雇用率制度」というものがあるのですが、障がい者雇用に特化し、障がい者が働きやすい子会社を作ることにより、特例子会社認定されれば、親会社の雇用率算定に組み込むことができる、という制度のことです。
挫折の経験
新天地である、特例子会社でも社員としてやったるぞー!という気持ちのもと、がむしゃらにやってきました。ただ一般企業と違うのは「生きにくさ」を抱えた人たちが多くいること。たくさんの人が自分の生きにくさと戦いながら、仕事をしていました。自分自身は、この時点で障がいはなかったのですが、「障がいがあってもなくても成長していく」という会社の理念の中、また、社会の流れとして、CSR(企業の社会活動)が着目される中、会社はどんどん大きくなっていく(=障がい者雇用率の上昇)のでありました。
そんな中、初めての挫折を経験することになるのです。
それは、グループでプレゼンをしながら学びあいましょう、という、会社で良くありそうな企画。
自分自身、人前で話すことは緊張はするものの、話し始めてしまえば、とりあえずなんとか乗り切ることができる、というような典型的な「あがり症」のタイプだったのですが、その日は違いました。自分の話す番になっても、言葉が出てこない。頭が真っ白になって、言わなきゃいけないのに震えが止まらない。そんな中でもみんながこっちを見ている視線が突き刺さるようで、もうパニック状態。それでも数分したあとなんとか一言、二言言葉がでて、ようやくしゃべり始めることができたのです。
この日を境に、「人前で話す」ということが全くできなくなりました。人前に立つと、「また、あの時のようにしゃべれなくなるんじゃないか」と吐き気が止まらなくなり、同じように言葉が出ない、という状況が繰り返されるようになったのです
転げ落ちるように
「それ」が、「社交不安障害」という病気であることを知ったのは、しばらく経ってからでした。精神科に通院し、「緊張を取る薬」を処方され、発表や皆の前での挨拶などの前には頓服として、飲むことになったのです。しかしながら、社交不安障害から、やがで、世の中の色々なことに不安を持ち始め、最終的には「なぜか会社に行けない」という状況にまでなってしまったのです。精神科の先生には「抗うつ剤」を処方され、会社に行くことを促されました。
「うつ」か、、、、それでも会社に行けるんだ、、、、というのがその時の正直な気持ちでした。その時の先生の判断が正しいかどうかは置いておいて、ともかく、うつ&社交不安障害を抱えながら会社生活を続けることになったのです。
ただ、自分自身が精神疾患を患って初めて分かったのですが、「特例子会社」という障がい者が働きやすいはずの会社でありながら、精神疾患については全くと言っていいほど、知識がないんだ、、、と。正直、車いすや目の不自由な方は見て、どのような不便があるかなんとなくわかります(といっても本当の辛さはその身にならないとわかってあげられないと今は思っていますが)。
でも精神疾患は、見た目普通。いや何なら健康そうに見える。だけど「生きにくさ」を抱えている。それがどうしても理解できないんだなあ、と身に染みて感じました。とある上司には、信頼していたので病気のことを伝えていたのですが、その彼からは「お前はメンタル弱いからな(笑)」と言われ、ああ精神疾患を理解するってすごく難しいんだなあとよくよく感じたものです。と、そんなことを言っている自分も、もしこの疾病にかからなければ、同じように「あちら側」の人間だったかもしれません。
そんな時に出会った「整体」
「社交不安障害」と「うつ」を抱えながらも、好きな旅行は続けていた時、北海道のとあるサウナで、今でも尊敬している整体師と出会いました。心も体も疲れ切っていた自分を優しく、しかしながらしっかりともみほぐし、終わった時には心も体も羽が生えたような気分になっていたのです。
ああ、なんて素敵な体験なんだと、心から感動しました。そして、自分の手2本だけで人に感動を与えられるという「整体師」という仕事に憧れにも似た感情を持つようになったのです。
齢40ウン歳。正直このままサラリーマンを続けていれば、安泰な人生は過ごせるでしょう。好きな仕事も続けることができます。決して会社が嫌いになったわけではありません。
ただ一方で、「一度しかない人生、別の道を目指すとしたら最後のチャンスかもしれない」と考えたとき、会社を飛び出していました。
そして、今、私は「整体師」として働くことができています。
私の「整体師」の信念は「寄り添うこと」。痛みに、心に。
「整体師は患者を治してなんぼじゃい」という方もいます。私自身もどんなお客様が来ても対応ができるよう、日々勉強しております。
ただ、ここにしかないものは何かと聞かれたとき、「暖かさ」であると自信を持って言える整体院でありたい。
「ゆたの蒲田整体院」がそんな場所になれることを願って、今日もドアを開けます。
「こんにちは、ゆたの蒲田整体院へようこそ」と。